光速度不変の原理は、アインシュタインの特殊相対性理論の基本原理のひとつで、光の速さは、観測者の運動状態によって変化しないというものです。
世の中で、これほど批判を浴びている原理は他にありません。
もちろん、正しいかどうかはわかりません。
しかし、批判の多くは無意味な批判です。
無意味な批判の典型的な例を示してみましょう。
目次
光速度不変の原理
光速度不変とは?
光速度不変の原理は「真空中の光の速度は全ての慣性系で同じである」というもので、アインシュタインの特殊相対性理論の基本原理のひとつです。
世の中でこれほど攻撃された原理は他にないでしょう。
ネット上にも
「光速度不変の原理は間違っている」
「光速度不変の原理には根拠がない」
「光速度不変の原理は証明されていない」
という批判が氾濫しています。
もちろん、光速度不変の原理は間違っているかもしれません。でも、これらの主張の中には、あまりにも意味のない主張が多いのも事実です。
「こんな議論は意味がない」ということを示すため「基本原理とは何か」という視点で考えてみましょう。
光速度不変の原理の成り立ち
光速度不変の原理の説明によく使用されるのが、「マイケルソン・モーレーの実験」の実験です。
1887年にアルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーによって行われた実験で、地球の進行方向とその直角方向での光の速度の違いを検出しようとした実験です。
その実験の結果、予想されていたほどの差が見られませんでした。
これが光速度不変の原理を確認した実験だと説明されることが多いようです。
アインシュタインは(真偽はともかく)この実験の結果は知らなかったと述べていますし、少なくともこの実験結果のみで光速度不変の原理を提唱したわけではありません。
「マイケルソン・モーレーの実験」の実験法や結果の解釈を批判しても、光速度不変の法則が間違いだという根拠にはなりません。
ましてや「マイケルソン・モーレーの実験」は、他の方法でも説明できるから「光速度不変の法則が間違い」というのは、主張にすらなっていません。
光速度不変の原理に関する議論
光速度不変の原理は実証されていない?
マイケルソン・モーレーの実験はあくまでも地球の進行方向に対する光の速度のずれを測定し、実験誤差範囲内では差が見られなかったことを示しているだけです。
「真空中の光の速度は全ての慣性系で同じである」などということを証明する実験結果ではありません。
「光速度不変の原理は、マイケルソン・モーレーの実験で証明されている」と、そう誤解されるような書き方をしていることはあります。
正しさなんて、色々な結果を見て総合的な判断をして決めるものです。一般の解説書で、そんなことを羅列しても誰も読みません。
光速度不変の法則が正しかったら、こういう結果が導かれるという本論に入る前の、言葉のあやです。
当然です。マイケルソン・モーレーの実験だけで「真空中の光の速度は全ての慣性系で同じ」ということが証明できるものではないことは、誰でもわかります。
とりあえず、正しそうな実験をひとつ示して次に進んでいる、普通ならそのくらいの文脈を読んで判断します。
そもそも、全ての慣性系で光の速度が同じなんてことを実証することは不可能です。
全ての慣性系で実験することもできなければ、誤差0で光の速度を測定することもできません。人間が可能な範囲の実験しかできません。
マイケルソン・モーレーの実験だけではありません。その後、同様の実験が何度も行われています。時代とともに精度も高まっています。
しかし、いくら精度を上げても誤差は0にはなりません。その誤差範囲内で光速度に違いがあることまでは否定できません。
それも、あくまでも地球上という限られた範囲で、光の速度の違いが見つからなかったというだけです。
全ての慣性系での実験結果には程遠いものです。
光速度不変の原理は実証されていないのは、当たり前なのです。それは、他の物理理論でも同じことです。しかし、何故か光速度不変の法則だけが、そのことを欠点のように言われています。
実証するにはどうすればいいのでしょうか?
非常に高速で飛べる宇宙船を使って、色々な方向へ色々な速度で飛ばして、光の速度を測定し、その結果が100桁まで精密に測定して完全に一致した。
そんな実験結果でも示せばいいのでしょうか? それなら多くの人が納得するでしょう。
でもその実験が現在の技術でできるはずもありません。
もし実験出来ても、厳密には証明したことにはなりません。
原理が(演繹的に)証明されていないのは当たり前のことで、それを理由に相対性理論が間違っていると主張するのは、見当違いです。
基本原理は仮定
そもそも、物理の基本原理は仮定です。特殊相対性理論は「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」が成り立つとしたときに、そこからどんな結果が導かれるのか示す理論です。
これは、どんな理論でも同じことです。基本原理から得られる結果が実験値と合うかどうかを確認していき、実験値と整合する結果が積み重ねられることで、少しずつ「確からしさ」が高まっていく、これが物理理論です。
論理的に言うと、基本原理には証明も根拠も必要ありません。
「何故」を繰り返していくと無限地獄に陥ります。どこかで「これ以上、何故を問わないことにしよう」と決める、それが基本原理だからです。
原理には根拠がないのは、当たり前なのです。
もちろん「何故この基本原理が成り立つのか」と考えていくことは大事なことです。
ただし、根拠がないことを間違っている理由にすることは、できません。
光速度不変の原理は立証されていないという主張の無意味さ
上述のように、光速度不変の原理に限らず、どんな仮定でも完全に立証することは不可能です。
その原理を支持する実験結果が一万個あろうが一億個あろうが、立証したことにはなりません。このような証明を求めることを「悪魔の証明」と呼びます。
絶対に証明できないことを、証明しろという悪魔のような要求です。ましてや、その証明ができないから間違いという理屈は成り立たちません。
それでは、何ひとつ正しい理論はなくなってしまいます。
逆に、間違っていることを示すのは簡単です。
反証がひとつあればいいのです。
正しいことは、実験結果を一億個積み重ねても証明できませんが、間違っていることを証明するのは、結果がひとつあれば終わりです。
光速度不変の原理が間違いだと主張するのであれば、他の科学者が追試しても再現性よく確かめられる反証を示せばいいだけです。
原理の確からしさをどう高めるか
原理がなりたっていることを裏付ける実験は必要でしょう。
光速度不変の原理で言えば、実際に光速度を測定して確認するようなことです。どうやって測定すれば精度よく結果が得られるか、実験物理学者の腕の見せ所です。
しかし、それだけでは限界があります。
光速度が一定かどうかという実験は、現在のところ地球上(せいぜい衛星軌道)で行うしかありません。全ての慣性系のうちのごくごく狭い部分だけです。
ですから、原理そのものだけではなく、原理から得られる帰結を実験で確かめることも必要です。
原理そのものでは実験できる範囲が限られていますが、その原理から導かれる結果を間接的に実験で確かめるのです。
他の理論とは結果が異なることが予想され、精密な実験ができる方法はないか、それを考えだす、これも物理学者の大事な仕事です。
そして、そのような結果を積み重ねていくことで「この理論は確からしい」と認められていきます。
何を基本原理に置くべきか
等価な理論もあり得る
特殊相対性理論では、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」のふたつを基本原理としています。
実は、他の原理を基本原理に置いて、特殊相対性理論と等価な理論を作ることもできます。等価な理論というのは、どんな計算をしても特殊相対性理論と同じ結果が得られる理論のことです。
等価な理論では、結果が同じなので「どちらが正しい」などと議論する意味はありません。それは「科学」より「哲学」の問題です。
「光速度不変の原理が基本原理だとは認めない」という哲学なら、違う原理を基本原理にするだけです。
基本原理として他の原理を採用すると「光速度の不変性」は、その原理からの帰結となります。
ですから、その場合は「こういう理由で光の速度が不変になる」という説明ができます。そして「何故」を繰り返していくと設定した基本原理に到達します。
そして、それ以上は「何故」を問えないという構造です。
理由を問わない基本原理に何を置くか、ただそれだけのことです。
物理理論は、できるだけ単純で、できるだけ少ない原理から理論を構築するのが望ましいとされます(色々議論はありますが)。
特殊相対性理論は、単純なふたつの原理から出発しており、その要件を満たした理論であることは間違いありません。
これより単純な原理で、等価な理論を創るのはおそらく無理でしょう。
特殊相対性理論と等価な理論
アインシュタインが特殊相対性理論を発表しなくても、近い時期に特殊相対性理論と等価な理論が完成したことは間違いありません。
ローレンツやポアンカレの研究は、ほぼ特殊相対性理論と同じ結論に至っていました。
特殊相対性理論の基本的な数学的形式であるローレンツ変換はすでに導かれていました。これが成り立つのであれば、導かれる結果は特殊相対性理論と変わりません。
特殊相対性理論から導かれる奇妙な(と言われている)結果は、当時の科学者たちにとってそれほど奇妙なものではなかったのです。
特殊相対性理論が衝撃を与えたとすれば、当時の理論とは違った視点で理論を構築したことでしょう。
これほど、分かりやすく単純な原理からローレンツ変換が導かれるなんて……感動すら覚えるのですが。
もしかしたら、特殊相対性理論を説明するとき、もっと訳の分からないものを基本原理にして、ややこしくて、理解ししにくくて、扱いにく理論にしておけば、これほど攻撃されることはなかったのでは? と思うことがあります。
コメント
一般的な温度、すなわち常温から絶対零度付近では正しいのかもしれない。しかし数千万度乃至数億度の超高温下ではどうか。たとえば太陽内部では光はこの法則に縛られないし、ブラックホールからは光も脱出できないとされている。
たぐちゆきお様
コメントありがとうございます。
言葉足らずで申し訳ありません。この記事は特殊相対性理論に限った場合の説明です。
おっしゃる通り、高エネルギー状態、重力が大きい場合など、特殊相対論が適用できない場合には、光速度が変化することはあり得ます。
一般相対性理論を説明するのは、私の能力では無理なので……
この記事面白かったです。なるほどー
ああさん
ありがとうございます。
面白い記事を書こうとは思っているのですが、中々上手くいかなくて……修行中です。
全体を俯瞰して時系列に考察しないと肝心な点を見損なう
<追試の実験と原初の実験を混同してはいけない>
そもそも、マイケルソン・モーリーの実験は、トマース・ヤングの光干渉実験を受けての“追試”でしかなかった。ヤングの実験に論理的な不備が有れば、その不備は当然マイケルソン・モーリーの実験に引き継がれることになる。逆に言えば、マイケルソン・モーリーの実験に不可解な点が有れば、無理な理由付けをするのではなく、ヤングの実験を顧みればいいだけの話である。(マイケルソン・モーリーの実験は、トマース・ヤングの光干渉実験とセットにして初めて、一つの実験として扱える。単独の実験は科学的意味をなさない)
太陽から地球へと大量の“光”が送り届けられる。それらの“光”は真空の宇宙空間を、粒子として飛来してくるのか? 波として伝わってくるのか? 当時の学者間で議論が交わされた。
その議論に終止符を打ったのがトーマス・ヤングであった。ヤングはダブルスリットを通して“光”を干渉させ、“光”が波として伝わってくることを証明した。ヤングは解説する。
「仮に、“光”が粒子として飛来してくるのであれば、スリットを通しても干渉縞が現れることはない。干渉縞が現れたと言うことは、“光”が真空を波として伝わってきた紛れもない証拠である。つまり、“光”はエーテルを伝わる波である。」
<光を電子に置き換えることで見えてくるもの>
ところで、「光は波でありながら粒子でもある」ことが後になって分かってきた。現在では電子を含む、あらゆる素粒子もまた「粒子と波の二面性を持つ」ことが分かっている。そこで、先程のヤングの解説文から、“光”という文字を取り除き、代わりに“電子”という文字を充てがうのである。すると、ヤングは以下のように解説することになる。
「仮に、“電子”が粒子として飛来してくるのであれば、スリットを通しても干渉縞が現れることはない。干渉縞が現れたと言うことは、“電子”が真空を波として伝わってきた紛れもない証拠である。つまり、“電子”はエーテルを伝わる波である。」
そこで、マイケルソン・モーリーの登場となる。電子を同じ速度で、同じ距離だけ、前方と横方向に照射して帰ってくるまで時間を測ったところ、『互いの速度に差を見いだすことはなかった』
だからと言って、『電子速度一定の法則』を主張するのは早計だろう。単に、「電子はエーテルを伝わる波ではない。従って、慣性の法則に従う」ことを確認しただけの話である(エーテルを伝わる波であるならば慣性の法則には従わない)。
“光”もまた“電子”の場合と同じで、「光は、エーテルを伝わる波ではない。従って、慣性の法則に従う」ことを確認しただけの話にすぎない。至極当然の実験結果で特に驚くようなことではない。
ichinsanさん
コメントありがとうございます。
「全体を俯瞰して時系列に考察しないと肝心な点を見損なうこと」
賛成です。
この記事で言いたかったことです。
「啓蒙書でマイケルソン・モーレーの実験で光速度普遍の原理を簡単に説明していても、実際の科学者はそんな単純に考えているはずがない。
他の数多くの実験結果や観測結果を踏まえて考えているので、全体を俯瞰せず、マイケルソン・モーレーの実験だけを取り出して議論しても何の意味もない」
まとめるとこんな感じです。
そして
「マイケルソン・モーレーの実験結果だけを取り出して説明するなら、光は慣性の法則に従うとするのが一番簡単」
これにも同意します。
マイケルソン・モーレーの実験結果だけ説明すればいいのなら、いくらでも理屈をつけられますが、その中で一番簡単なのは慣性の法則に従うとすることだと私も思います。
そして本文中の説明につながります。
「「マイケルソン・モーレーの実験」は、他の方法でも説明できるから「光速度不変の法則が間違い」というのは、主張にすらなっていません」
あまり語られることはないのですが、
光速度不変と言っても「相対性の光不変」と「絶対性の光不変」というのがあって、
違いは速度に対する立ち位置。
相対性:「絶対静止系など存在せず、あらゆる速度は相対的」
絶対性:「絶対静止系は存在しており、あらゆる速度は静止系に対して有意な数値を持つ」
その違いは「見掛けの時間」の解釈に影響を与えており、例えば双子のパラドックスで述べられている「弟の時計は速く進み」「兄の時計は遅く進む」という現実に対して、
相対性の主張:「弟からは兄の時計が遅く進むように見えるが、兄からは弟の時計のほうが遅く進むように見える(=対称性)」のに対し、
絶対性の主張:「弟からは兄の時計は遅く進むように見えるが、兄からは弟の時計は“速く進む”ように見える(=非対称性)」となる。
つまり、相対性は「現実には速く進む時計も見かけ上は遅く進むようにしか見えない」と主張し、絶対性は「遅く進む時計は見かけ上も遅く進むようにしか見えない。速く進む時計は見かけ上も速く進むようにしか見えない」という主張になる。
上記は“速度”による「相対性と絶対性の違い」ですが、その裏には“重力”による「相対性と絶対性」の違いが隠されており、
相対性:「重力静止系(重力ゼロの地点)は存在せず、あらゆる重力は相対的で、遅れて進む時計も速く進む時計も、お互いに遅れて進むようにしか見えない」となり、
絶対性:「重力静止系は存在しており、遅れて進む時計は遅れて進むように見え、速く進む時計は速く進むように見える」という主張になる。
こうしてみると、
特殊相対性理論は「相対性」を採用したがゆえに多くの矛盾を抱え、一般相対性理論はブラッシュアップの過程において意図ぜず「絶対性」に宗旨変えしたので、無矛盾で安心して聞いていられるのである。
尤も、絶対性を採用しながら未だに「一般“相対性”理論」を名乗るのは如何かとは思うが…。
光速度不変の原理は、タイムスリップとか証明するのに一番大切なとこなので…白黒はっきりして欲しいですね。何としてでも。
信者が嫌われる理由を知らなさそう