科学理論はどうあるべきか? オッカムの剃刀

オッカムの剃刀とは?

必要のないものはいらない

 14世紀の哲学者・神学者オッカムが唱えたもので「現象を説明するための仮説は少なくすべき」というものです。元々は「必要のない仮説は捨てましょう」といった意味です。

「惑星が動き続けているのは、天使が押しているからである」と説明されていた時代に「天使の仮説は必要なの?」と問いかけたのです。

「天使が押している」ということは、神様がそうさせていることが前提です。神様が惑星を動かし続けているのであれば、天使を使おうと、他の方法を使おうと同じこと、じゃあ天使の仮説はいらないという主張です。

オッカムの剃刀は否定ではない

 オッカムの剃刀は、必要ない仮説は省くという論理を組み立てるときの考え方に過ぎません。論理的に必要ないから切り捨てただけです。もしかしたら、実際に惑星を天使が動かしているのかもしれません。ましてや「天使などいない」という主張ではないのです。

 現在の科学理論には神様は出てきません。これは、神様の存在を仮定する必要がないということで、神様がいないということを示すものではありません。

 ですから、心情として「宇宙がこのような物理法則に従って動いていることは、とても偶然とは思えない。宇宙を設計した神様がいるはずだ」と思っていている科学者がいても、いいのです。

 逆に言えば、神様の存在を信じている人が「神様は必ずいるのだから、現代科学は間違いだ」と主張することも意味がありません。現代科学は「神様がいる」「神様いない」というどちらの仮定もしていないのです。

相対性理論はエーテルを否定していない

「相対性理論はエーテルの存在を否定した」と言われることがありますが、論理的にいえば不正確です。

「相対性理論にはエーテルの仮定が必要ない」のです。

 ただ、相対性理論は「もしエーテルがあったとしても絶対に検出できない」という理論なので、エーテルが検出された時点で間違いということになります。

 もちろん「エーテルとは何か?」を明確にしておく必要があります。相対性理論と矛盾しないものを「エーテル」と呼んでも、それで相対性理論が間違いとは言えませんから。

オッカムの剃刀はどこまで適用するべきか

オッカムの剃刀の拡大解釈

 オッカムの剃刀は「科学理論は仮定が少ない方が好ましい」とか「仮定が単純な方が好ましい」と言った意味合いで使われたりします。20世紀に科学理論とはどうあるべきか? という大論争があり、その文脈で語られたものです。

アドホックな仮説

 アドホックな仮説とは、ある理論が反証されたときに、その反証を否定するためにその理論に後から付け加えられる補助仮説のことです。

 ある理論を組み立てたとしましょう。調べていくと、その理論と合致しない現象がみつかったとします。そのとき、その現象を説明するために新たな仮説を立てることをアドホックな仮説を立てたと呼びます。

 自分の作った理論と実験が合わない場合、合わせるために新たな仮説を付け加える、これを繰り返していきましょう。何度も繰り返せば、そのうちそれまでに知られた現象を説明できる理論にはなります。

 その後、新たな現象が発見されたら、またそれに合わせて仮説をたてるだけです。おそらく仮説の数は膨大なものになります。これを科学理論と呼んでも良いものでしょうか?

 ほとんどの人は、科学的な理論ではないという意見に賛成するでしょう。

線引問題

 このようなアドホックな疑似科学とまっとうな科学理論を区別する境界を決めることを線引問題といいます。その基準のひとつとしてオッカムの剃刀が議論に登ったのです。

 同じ現象を説明するのに、10個の仮説が必要な理論と3つの仮説で説明できる理論があれば、3つの仮説の理論の方がアドホックさ少ない、まっとうな理論に近いということです。

 ここで「アドホックさが少ない」「まっとうな理論に近い」という表現を使ったのには意味があります。

 実は線引問題は、激論の末「きっちり分ける境界などない」ことが分かったのです(この辺りは非常に面白いのですが、今の私では上手く説明できそうにありません)。

 ですから、オッカムの剃刀は、できるだけまっとうに近い理論を作る指針と考えるべきでしょう。

厳格に使う必要はない

 あくまでも指針ですから、それほど厳格に適用する必要もないと捉えることもできます。もちろん、あまりに酷いもの(現在でも酷い疑似科学ははびこっています)は別として、後は柔軟に使えばいいのです。

 同じ結果が得られる等価な理論で、仮定が多いものと少ないものがあった場合、必ずしも仮定が少ない方がいいとは言い切れません。仮定が少ないが扱いにくいものと、仮定が多いが使いやすいものがあれば、使いやすい方を使ったっていいでしょう。

 論理的には必要のない仮説でも、その仮説を採用した方が扱いやすいのならそれを便利に使えばいいのです。

 というより、現在の科学はそうでもしないとやってられない状況になっています。